昭和48年7月3日 朝の御理解
x御理解第2節
「先の世までも持って行かれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受けることが出来る。みてるということがない」
昨日の昼の御理解に、「物事時節を待たず苦をすること」という御神誡に基づいて、黒板に書いてありますね。あの御理解頂いたんですけれど、昨日、あの御理解をそのまま地で行っておる、いう意味ではない。いわゆる東京へ行きたいと思えば、東京行きの列車に乗らなければならない。それに鹿児島行きに乗ったんでは、全然反対のほうへ行くんだと言った御理解でしたね。
昨日遅く、東京の品川区、品川地区の年寄りの人達の、あれはドキュメンタリーというのがテレビであってましたね。その年寄りの方達のところを訪問しておるのが、テレビに出ておりました。沢山おられます。身寄りのない年寄り、やはり身寄りがあっても、構い手がないと言ったような、とりわけ品川区は火事が多いんだそうですが、その火元の大概が年寄りの独り暮らしをやっているところから火が出る。
それで、それを逐一調べ上げて、それを未然に防がなければならないと言うようなこと。それを一人一人というか、ことのテレビがあっとりましたが、みんな八十か九十位の人で、そして独り暮らしで、もうどの人を見ても、どの人を見ても、もう我が強そうな感じですね。
中に一人、四千坪から庭があるという邸宅に、一人住まいのお婆さんが出てました。前首相の佐藤さんところと親戚になる。息子は大変大きな事業を東京でやっておる。昼はお手伝いさんが、時間切ってやって来て、夕方になると帰る。その大きな邸宅に一人。しかも、子供たち孫たちというのは、年に一回しかやってこない。その代わり、年に一回は、もう料理人を連れて来て、美味しいものを作って食べさせるというようなことを、誕生日に、お婆さんの誕生日に、年に一回、子供たちが孫連れでやって来る、というような。
いくら、お金があったり、またはその大きな邸宅に住んでおっても、本当に寂しい限りだというような様子のものがあっておりました。ほとんどがみんな小さいアパートに住むとか、または小さい部屋に住むといったような、自分で自炊しながら出てました人達、成程、これでは火事の元になるであろうといったような模様でした。
本当に、信心のある者とない者は、親のある子とない子程の違いを感じますけど、先の世までも持って行かれ、子孫までも残ると仰る程しの信心、それはやはり東京行きに、いわゆる人間が、真実幸せになりたいと思うならばです、真実幸せになる道を歩かなければ駄目です。
真実東京へ行きたいと思うなら、東京行きに、間違いのない汽車に乗らなければ。それに、反対の鹿児島行きに乗っておる。道中はさほど変わらん。目に映ってくる景色など大して変わらん。けれども、片方は絶対信、幸せの、どういうか、絶対東京へ行くという汽車に乗っておる。
そこにですね、人間の幸福というようなものがです、鹿児島行き、例えば東京行きに、幸せになりたいと思うて、一生懸命働いて、ところが、実際は鹿児島行きに乗っとる。なら、その間一生懸命汽車が進行しとりますから、自分なもう、それ東京行きということになって、言うならば、もう人間の終着駅ということになってね、そういう時になって、慌てて、これはしもうた。これは反対の方行きだったと気が付いた。家も立派に建った。財産も貯めた。けれどもそれは、幸せの道ではなかったと気が付いても、もう遅いという、実に哀れな話でありますけれども。
私は、天地の親神様が「氏子信心しておかげを受けてくれよ」と仰るのは、はっきり、人間の幸福とはというものを、物やら金やら、言わば、信心以外のものに求めて、成程それは生き甲斐を感じながら生活をした人もあるかもしれませんけれども、その、頼りにならないことに生き甲斐を持って生きて行ったところでです、本当の幸福ということには、人間の幸福というものは、いや、先の世まで持って行かれ、この世にも残ると言ったようなものにはならないという事実をね、昨日頂いた御理解をね、思うて、そのテレビ見させて頂いとりましたら、本当に間違いなしに幸福になれる道があるのにと、まあ思うわけです。
だからね、実際に私どもが、まあ元気であるという時に、一人、中に、南方から引き上げて来たというお婆さんがありましたが、 「ああ一ぺん南方に、もう一ぺん行ってああいう生活がしてみたい、してみたい」と何回も繰り返しているお婆さんがありましたがね。
もう、乗り遅れておる、乗り違えておる。今から例えばそれに乗ったところで間に合わん。もうだから、南方で相当贅沢にして暮らした人らしいけれども、もうどうにも仕方がない。
私どもは、どうでも一つそういう意味ででもです、絶対のもの、間違いない人間の幸福というものを、人間の幸せというものが、どこにあるのかと。それを私どもが信心によって求める時に、教えられるものは、結局は心である。
そこで、なら、今まで苦労であったと思うておったものが、修行ということになり、生き生きとした心で、それに取り組むことが出来る。今まで、愚痴不足を言うておったものがです、有難い勿体ないという生活に入って行く。それが信心だと私は思うです。信心すれば、誰でも受けることが出来る。みてるということがないのが神徳だと、こう教えとられます。
ですから、なら、東京行きを目指すとか、鹿児島行きを目指すとかということはどういうことかと言うと、結局真実の幸福を目指すということ。真実の幸福とは、真実自分の心が助かるということ。
それを目指して、それに一歩づつ近付いて行くということ。その道すがらというものは、有難い勿体ないということだとこう思うです。
そういう道をたどっている人、たどっていない人、成程、有難いと言わんでも、勿体ないと言わんでも、結構おいしいものを食べ、奇麗なものを着て、良い家に住んでおるという、そういう道中は一つも変わらん。だからなんだ。信心のある者とない者は大して変わりはない。却って信心しとれば、朝早うから、またそれだけ特別なお金もかけたり、時間もかけたりせんならん。
ただその道中という、私どもの道中というのはです、鹿児島行きに乗ろうが、東京行きに乗ろうがさほどは変わらん。ところが、いよいよ東京へ着いてみて、あら、自分は鹿児島行きじゃなかった。
東京行きじゃったのにと気が付いても、もう遅いということ。私どもが目指さして頂く、例えば、東京というのが幸福ということならばです、間違いない東京行きに乗るということ。
そこで、信心による、信心によって頂くことは、目前、目先のおかげにとらわれず、心に、言うなら焦点を置いての信心、そこから、有難い勿体ないという生き方が体得されるということ。それを例えば、目指して行けばです、例えば、それはあの世に行っても、そちらの方を目指して行けれるということですね、この世では出来なくなっても。だから、ますます東京と鹿児島が離れて行かねばならない。そういう信心とは大事なことだとこう思うです。
今朝、私、お夢に、断片的なことですけれども、ある方に誰かが「大坪さんのような人が、一遍、三日間だけ牢屋に入ってくれないか」と頼みよる。そしたら、その方が「はい承知仕りました」と言うておるとこ。どうもその雰囲気からね、「お前を牢に入れるのは、お前が悪いことをしたから入れるのじゃない。牢屋にあんたが入っとる間に、こういう事件の解決する一つの手立てだから」というような意味のあるお夢でした。
信心しておってね、私は、神様が言わば、苦労を求め、修行を求め給うのは、そういうことじゃなかろうかと思うですね。成程、私どもは、それを修行と思うて、「はい」と承っての、いわゆる生き方。悪いことをしとるから牢屋に入れるとじゃない。それは神様の御都合が、言うなら神様の御都合が成就するために、神様の願いが成就することのためになる。だから、神様とその家来がです、その殿様と家来がもう本当に通じ合っとらねばならん。それは殿様の都合で、自分は牢屋に入るんだ。三日間とはどういうことだったか知らんけれども、まあそれは短期間であるという意味であろうと思う。
私どもが信心さして頂いておる、おっての苦労というものはね、決して長く続くもんじゃない。だからそこんところを、真実、そこから早く出してもらいたいの苦労から、脱却したい脱却したいという苦労とは全然違う。言わば殿様の都合で牢屋に入るのである。神様の願いが成就することのための苦労である。
私、先日も申しましたが、これは教主様の場合も、それをみることが出来るが、私の場合でもそうである。もう本当に人が「信心しとってあげな苦労をどうしてせんなんじゃろうか」という苦労は、もう二年くらいしか続いてないです、私の場合は。
ですから、その二年の、その短期間の苦労というものは、もうただただ有難い、勿体ないという信心生活であったということです。
どんなに苦労であっても、それはもう手も出らん、足も出らんという窮屈な中だった。けれども、それが言うならば、本当に後光がさすような生活をしておったということです。その中に、「大坪さん、そげん有難かつですか」と、人が疑うくらいな、生き方をしておったということです。
いわゆる、神様の御都合、神様の願いが成就しておるんだと。私の願いが成就しておるんじゃない、神様の願いが成就しておる。なら、どういうふうに成就しとるかということです。まあいろいろありましょうけれども、一番の願いは、「大坪総一郎に力を与えたい」という願いが成就しておった。ですから、いかにそこんところをですね、私は大事にせなければならない。
早う窮屈なこの牢屋の中から、一日も早う、一時間も早う出してもらいたい。出してもらいたい。この難儀から解脱したい、脱却したい。どうぞひとつ、早く楽になりますようにと願い、その願いが聞き届けられるにしても、ひとつもすっきりとしないというか、それが本当の意味においての、喜び一杯での、言うなら、神様の御都合で、今自分が苦労しとるんだということになったら、もう本当に堂々とした、言うなら、苦労ができるわけです。もう苦労ではなくて、それが有難うして有難うしてということになるのです。
私、今朝から頂いた、三日間だけ牢に入ってくれと、もうそれを、外の、だから、言うならば、牢に入っとるだん、悪いことしとるけん入っとる。それが信心のない者の、信心の薄い者の姿、難儀な者の姿であろうとこう思うのです。本当に、信心が分からせて頂いて、人間の真実の幸福というものがです、心にあるんだと気付かせて頂いて、いわゆる、どのような場合であっても、その難儀を、心を育てる手立てとする。
例えば、節を大事にするという生き方にさえならして頂いたらです、苦労というかね、そういう牢獄の中に入っとるという難儀というものは、長く続くものじゃない。短期間なのだと。それを言うなら、修行と言いながら、難儀として、そこを一日も早う抜け出ろう、そこから出たい。早う楽になりたいというような願いを持っておる。
そういう気持ちで信心をしておる。それではね、すっきりとしない。
いつまでも時間がかかるのですね。
また、御神徳というものは私は、そういうような時にこそ、神様が、願いが成就しておるといった時に、お徳というものは、力というものは頂くものだと思うです。その辺をすっきりして頂きたい。
ということと同時に、私どもが、見極めが、本気で東京行きという、幸福になりたいと思うなら、もう本気で、自分の心に取り組まなければ駄目だと。金やら物やら、いろんな手段で自分が幸せになろうと思うたって、絶対それは許されないということ。
ですから、なら、心ということが中心であれば、どういうような場合であっても、そこにどういう難儀があっても、いよいよその心が光り輝くことのために、心をいよいよ豊かにすることの、いよいよ大きくして行くことのために、それがあるということなのですから、その辺のところが、東京行きとか、鹿児島行きとか、気付いてはおるけれども、すっきりせず、行ったり来たりしているような感じですね皆さん。
そこんにきをひとつ本気で通る。もう絶対信というのは、この道を行けば絶対幸福になれると、信心によって確信ができるということは、いよいよ心に取り組んだ人だとしか思われませんです。私どもが終着駅に言うなら近付いて、慌てたり気付いたりしたのではもう遅い。信心というものが、どこまでも人間の助かり、人間の幸福のために、宗教はあるのである。
ですから、幸福のために、私どもは信心しなければならない。なら、幸福の元はどこかというと、心です。いわゆる教祖は、そこを「和賀心」と仰る。和らぎ賀ぶ心を、どのような場合であっても、作って行く。またはその心を崩さんで済むおかげを頂く。そういう例えば過程においてです、神様の願いが成就しているというような、言うならば、神様の頼みを受けて自分は苦労しているんだということになってくると、そのことがいよいよ有難いもの、勿体ないものになってくる。
そういう生き方が、すっきり出来たら、苦労というものは長く続くものじゃない。難儀というものは長く続くもんじゃない。神様の御都合が済んだら出される。出される時にはもう、それこそ、もう箔が付くというか、力が付くというか、徳を受けておる。その徳をいよいよ育てて行き、いわゆる、あの世にまで持って行かれ、この世にも残しておけるというところにして行かねばいけません。
どうぞ。